2016年12月9日金曜日
さらば日田
日田での最後の日は荷造り…と言っても、こっちに来る前に生活必需品はほとんど処分し、持って来た荷物も半分以上がそのままなんですけどね。
このところ母は痺痛が更に酷くなり、睡眠導入剤の数は増える一方でした。それでも真面目でしっかりした性格の母は、家事を僕に任せている事に後ろめたさを感じたのか、ある朝、いつも僕が行っているゴミ捨てに自分が行こうとし、よろけて狭い玄関内に倒れました。それでなくとも導眠剤の影響でふらふらするのに。慌てて抱き起こすと、「えへへへ…」と力なく笑ってましたが、あの時は本当に心臓が一瞬止まるかと思った。
導眠剤の影響で夜中になると呆ける母の姿を見る度に、どうしようもない気持ちに襲われ、泣きました。今まで一生懸命真面目に生きてきた母がどうしてこんな理不尽な目に遭わなければならないのか…次第に「このまま自分だけが元の生活に戻るのは逃げなんじゃないか?」と思う様になり、母に「一緒に福岡へ行こう」と話しました。ここんちの前は桜並木になっていて、毎年春になると部屋から見事な桜が見られるんですが、母は「それまでは日田にいたい」と。「その後も症状が変わらず、もう1人で無理だと思ったらそうする」と言ってくれました。
母は一度も「日田に来て面倒を見てくれ」とか「家事をしてくれ」と僕に言った事はなく、「自分のせいで息子の人生を狂わせてしまった」と考えていました。だけど、僕からすれば、ここまで育ててもらった恩をまだ全然返せていない。だから、日田でのこの半年は「恩返し第一弾」と考え、母が1人での生活にしんどくなったら今度は福岡で一緒に暮らすつもりです。考えてみれば、原因を特定してようやく治療のスタートラインに立ったばかりなんですよね。
夕方、ちょっと早目の夕食を2人で食べに行き、また荷造りに戻ろうとすると、「薬を飲むと分からなくなるかもしれないから」と、母に「ありがとう」を言われました。「今まで生きてきた中で一番楽をさせてもらった時間だった」と。毎日毎日、自分にできる事を限界までやっても、返ってくるのは自己嫌悪と無力感と非力さの確認。母には「僕がなんとかするんで、何も心配せんでいい」と言い続けてきましたが、自分はホントは全く見当違いの方向に進んでいるんじゃないか?母の時間をいたずらに奪ってるんじゃないか?と毎日が怖く、本当に途方に暮れていました。僕は結局、自分の時間のほぼ全てを使っても何ひとつできなかった。それでも、今は日田に来て、母と一緒に暮らして本当によかったなと思います。
母もこれからまた1人の生活に戻るため、導眠剤を減らそうとしています。自立神経によるものなので、痛い→我慢→脳が更に痛みを抑えようと意識してしまうっつーのを回避するためには、「どうせ痛いのならやりたい事をやってみよう」と考えるのがいいんだとか。それが最も大変な事は重々分かっているけど、無理なら僕がまた一緒に暮らせばいい。
久しぶりに鏡を見たら、自分でも驚くくらい白髪が増えてました。まあ、歳のわりには元々多かったけど、それだけ鏡も意識して見てなかったんだなぁ。でも、白くなった髪の毛と、家事で赤切れした手は、日田で暮らした証みたいな気がして、自分ではそんなに悪いもんじゃないと思ってます。
明日、自分の人生に戻ります。
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